#4 目を開けたら朝だった
優しくされると泣きたくなる。
昨日、家に帰るとポストに結婚式の招待状が届いていた。
封筒を裏返せば、高校生の頃に片想いをしていた先輩と、私の元クラスメイトであり幼馴染でもあるあの子の名前が並んでいる。
続いていたのか、この二人は。
10年のブランクを経て、思いっきり殴られた気がした。
付き合い始めたんだ、と教室で二人から言われたあの時。
どちらの顔も見れなくて、何も知らない先輩と悪魔のような幼馴染が、本当に憎くて羨ましかった。
私のほうが好きだった。先に好きになったし、仲もよかった。多分。
だけど、恋愛にそんなものなんの関係もないのだ。
後だろうと先だろうと、相手の気持ちは動くべきときに動く。
おめでとう、仲良くね、と言えた自分は、今でもちょっとえらかったと思う。
まあ女の友情なんて所詮そんなものだ。
欲しいオスがいれば、他のメスより先に狩るまで。
好きだと言えなかった自分が悪いのだから、誰のせいにもできない。
だって、幼馴染と付き合った先輩は、どちらにしろ私のことを好きではなかったのだから。
私の恋愛観念はそこで180度変わったし、もう何も期待しないと心に決めた。
好きな人ができるということは、イコール傷つくこと。
私は好き好んで何度も何度も傷つきたくはない。
そうして生活から恋愛を切り離した私の前には、校正待ちの原稿が重なっている。
時計の針はどちらも、もうすぐ真上を指そうとしている。
「竹野、まだ帰んないの」
同期の橘が向かいのデスクで立ち上がった。ライトを消して、ディスプレイの電源を落とす。
「さっきまで打ち合わせだったから校正終わってなくて。明日の12時校了が3つあるんだ」
「でももうすぐ終電だろ、どうすんだよ」
「まあなんとかなるよ。ほら急がないと、電車」
ぴったり重なった時計の針を指さすと、橘は一瞬考えたあと、んじゃおつかれ、がんばれよ、と言って帰っていった。
深夜の会社に一人でいるのはわりと好きだ。昼間よりも空気が澄んでいるような気がする。
自分のデスク以外の明かりを消して、窓際に立ってみる。
何気なく窓ガラスに映った自分の顔を見てぎょっとした。
朝はいつも通りだと思っていたメイクはまったく馴染んでいなくて、昨日の招待状に殴られた痣がそのまま残っていた。
今でも、10年経っても、切り離せたわけじゃない。
あのときの痛みは一瞬だって忘れたことはない。
好きな人を失った痛み。友人に裏切られた痛み。
私はあの教室から、まだ一歩も抜け出せていない。
「おいこら」
突然の声に振り返ると、橘がすぐ後ろに立っていた。
近すぎて後ろにのけぞる。
「え、どうしたの」
「残業代使ってサボんな。校正さっさと終わらすぞ」
言い放って橘は、私のデスクに大きめのアイスコーヒーを置き、隣のデスクで校正を始める。
なにも言わない橘に呆気にとられたわたしもデスクに戻り、校正を始めた。
結局、二人がかりで校正を終えたときには、3時を過ぎていた。
あと2時間もすれば始発が動く。
それまでここで待ってる、と言うと
「それでも女子なの?一刻も早く帰りたいイキモノだと思ってた」
そう言ってなぜか橘も帰り支度をやめてしまった。
「いいよ、橘は帰りなよ。わたしより家近いんだし」
「近いと逆に帰りたくなくなる不思議ってあるよね」
椅子に浅く腰掛け、足を伸ばして目を閉じる橘は、どう見ても眠そうだ。
「意味わかんないこと言ってないで。こんな時間までごめんね、本当にどうもありがとう」
「なんで今日そんな死にそうな顔してんの」
え、と言うより先に嫌な予感がした。
これからこの男に泣かされる予感が。
「まあ常に疲れた顔はしてるんだけど。今日はなんか違う気がした」
やばい。やめて。気遣わないで。
まだ目をつぶったままの橘から、なぜか目を離せなくなった。
「そんなときに一人深夜残業させたら、万が一のことが起こるかもしれないと思って戻ってきたわけよ」
ふ、と笑ってしまった瞬間、もうアウトだった。
すんでのところで堰き止めていた涙が、大粒の雫になって落ちていった。
「泣け泣け、誰も見てないから」
その瞬間、嗚咽が漏れた。
思えばあの教室でも、その後も、一度も泣いたことなんかなかった。
悲しい、悔しい、でもどうすることもできない。
あんな思いをさせられた私より、あんな思いをさせたあの子のほうが幸せになるなんて、あまりにも惨めすぎて。
昔の恋だ、もう大人なんだから忘れてしまえ。
そう諭す自分の声に、今でも思い出にできていないことを思い知らされた。
「もうずっと昔のことで、今更また傷つき直すなんてバカだよね」
自分で言って、自分でそのとおりだと思った。
傷つきたくないから恋愛を切り離しても、恋愛じゃなくとも生きていれば必ずどこかで傷つけられる場面は来るのだ。
「無傷の人間なんていないよ。生きてくってのは傷つくってことだろ。それに耐えられるやつもいれば耐えられないやつもいる。耐えられるやつは同じ痛みをひとに与えないように努力する」
相変わらず目を閉じたままだった橘が、体を起こして私と向き合った。
まっすぐに、目を見て。
「もう過ぎた過去のことで傷つく必要はない。だけど、それでお前は誰にも同じ思いはさせないって思うだろ。傷つけられた側のほうが、絶対に優しくなれるんだ。傷つけたやつよりも幸せになれるようにできてるんだよ」
もう涙は止められなかった。
ずっと体のどこかで巣食っていたこの気持ちが、橘の言葉でしゅわしゅわと溶けていく。
「あ、ごめん。泣き顔見ちゃった、俺」
おどけながら橘が頭をわしわしと乱暴に撫でる。
ふふ、と自然と笑い声がでた。
始発で帰ったら、招待状の出席にまるをしよう。
とびきり素敵なドレスを準備して、二人の門出を祝おう。
二人の幸せを心から祈る友人として。
「眠い。1時間後に起こして」
それまで、いまは、おやすみ。
目を開けたら朝だった
(陽はまた昇る。だれの空にも。)
腹を空かせた夢喰い さま。
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